おっしゃる通りです。もっとも私たちはひかり幼稚園が「自由保育」とは思っていません。
まず「自由保育」とは何でしょうか。「午前中お集まりをしない」(午前中は遊びだけ)のが自由保育でしょうか。反対に午前中に「一斉に同一の課題を与える」のが一斉保育でしょうか。…そんなレベルで保育を論じてはいけません。
「自由保育」とは幼稚園教育要領にも、その指導書にもどこにも書いてありません。多分に子どもを管理することが重要だと考えている人々が、「子どもの自発性を大切にする保育」を軽蔑した表現として使っているようです。
いま「自由」とは何かを考えてみましょう。日本ではその概念がとてもあいまいです。決して「やりたい放題」「勝手気まま」「わがまま放題」「放縦」ではありません。日本国憲法が謳うように「自由」こそ、人間社会の基本概念です。思想および良心の自由、信教の自由、集会、結社および表現の自由、学問の自由・・・というように基本的人権の一つです。
憲法を持ち出すまでもなく、保育における自由とは、幼児個々が人間として尊ばれ、そのままの姿で尊重されること、解放された柔軟なこころと、公共のために言うことすることに責任を持つこと、個々の自発性が大切にされることなどを意味します。あくまでも「ルールの範囲内における随意の行動」(広辞苑)なのです。
ひかり幼稚園は理事長、園長のものでなく、もちろん教員のものでもありません。これは子どものものと考えています。幼稚園の創始者フレーベルが「キンダーガルテン」と名付けたように、これは「子どもの花園」「子どもに開かれた安全な世界」なのです。
ですから大人の感覚や概念で子どもを調教し、ロボットのように動かし、教師が主体者になって管理するのであってはなりません。まず子どもの生活があって、そのさりげない生活の中で人生を学ぶ、生活を学ぶ、つまり幼児の自己実現の場なのです。私たちはこのことを「生活で、生活を、生活へ」と呼んでいます。
口で「仲良くしなさい」「約束を守りなさい」「親切にしてあげなさい」と言うだけでなく、彼らがどうしたら仲良くできるか、どうしたら楽しくなるのか、自分をどう調整すればいいかを、人とぶつかりあって、泣いたり、喜んだりしながら身体ごとで体験的、具体的に学んでいくのです。
私たちは彼らが生まれながらに持つ「自分で考え、自分で判断し、選び、決定し、行動し、自分を統制し、調整する能力」(自主性)の育ちを大切にし、彼らの思いに寄り添いつつ、一人前の人間になることを念願しています。幼児期にはそうした生活の中で失敗や挫折、成功や達成など、試行錯誤、葛藤体験が非常に大事なのです。
「教育基本法」が、その第1条(教育の目的)で、「個人の価値を尊び、自主的精神に充ちた人格を形成すること」を教育の目的と掲げていますが、この「自主性の育ち」こそ幼児期にきちっと育てられているべきことです。
「自由にする」ということは、子どもを「色眼鏡」や「先入観」や既成概念など、とらわれた目で見ないということでもあります。子どもを透明なまなこで観ることは幼児の教育においては極めて重要なことだからです。
また「自由」というなら、「他人の自由」をも認めるということです。
さらに子どもだけでなく、保育者も、保護者も、理事も生き生きとした自由なこころを持っていることが大切です。言いたくてもいえない、周りに気兼ねばかり、言えないから忍従するでは困ります。自由とは「自分が自分の主人公になる」ということです。
これらのことは「指導を控える」とか、「叱らない」とか「しつけをしない」ということでは絶対ありません。むしろ大切なしつけだと考えます。口先だけの指示命令で、あたりを気にしながら自分を抑制する(人が見ていなければする。バレなければよい)ということでなく、幼児の紆余曲折の生活を通して、生きる力、人生の智恵を全身で獲得していくことを大切にする取り組みなのです。