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更新日:01.07.20
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2001年7月2日ひかり会定例会より |
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皆さんおはようございます。私がうわさの第1回ひかりの卒園生、武藤明美です。 本日「ひかりと私」と題し、お話しをさせていただくことになりました。幼少の頃の記憶は鮮明でひかりと私の歩みを当時の懐かしい品々を見ていただきながら進めたいと思います。 私はひかりに1年間だけお世話になりました。それ以前はというと、狭山市内の保育園に行っていました。保育園の印象は残念ながら良いものではありませんでした。人数の多い子ども、いつも忙しそうな先生、私の天然パーマをからかう年長の男の子たち、暗くて臭い落っこち便所。 時は昭和44年の秋、北風がピューピュー吹く中で鵜ノ木の地に鍬入れ式がありました。そこに立ち会ったのは東先生、みね先生、藤井先生、宣教師のスミス先生、教会の大島先生、他数名でした。この幼稚園が神に用いられるところとなるように祈り、御言葉を読んだのでありました。そして春には狭山ひかり幼稚園が誕生したのです。 両親は私をとっととひかりに入園させました。年長(月組7名)年中(星組40数名) ひかりには現在も多くの動物がいますが当時は、くじゃく、きじ、にわとり、うさぎ、東先生の家の犬などがいました。夏のある日、母の友人が東京から遊びにみえました。何とその手にはピヨピヨと泣き声のする箱が・・・あまりのかわいらしさにアヒルを持ってきてくれたのでした。でも住宅地でアヒルを飼うことはできません。考えた末、幼稚園へ持っていくことになりました。当時のプリントを見てみましょう。今も東先生が"プリズム"を書いておられますが当時もこのようによく書いてくださいました。"感謝の花たば"というところにアヒルのことが書かれていますが感謝するのはアヒルを引き取っていただいた私達です。冬にアヒルの卵を食べる会がありましたが食べていいものかどうか寸前まで悩んでいた私でした。(でも食べてみると甘くておいしかったです)
さて高学年になりいじめにあったときも、ひかりの前を通り先生の笑顔を見ることで勇気づけられたものでした。「私には大好きな先生たちがついている。先生は私のことをよく理解してくれる。だから負けない。」と。 そして中学、高校、短大といつもひかりの横を通り自転車を走らせました。保育実習もひかりでお世話になり先生方の力量に、そして小さな人たちに感動の日々でした。資格も取れ晴れて入間市のある幼稚園へ勤務することになりました。先生の仕事は思った以上にハードでした。家に持ち帰る仕事もたくさんありました。そこの幼稚園はひかりとはとても対照的でした。東先生は「うちの先生なら3日で辞めちゃうな。」とおっしゃいました。「石の上にも3年」と思い3年は頑張ったので辞める決意をしました。園長夫妻は私を他の園に就職させまいとしました。私の中傷をしにある所に行ったそうですが偶然にもその話しを聞いた方がひかりの子のお父さんであったために「ひかりの卒園生が果たしてそんなことをするのか」疑問に思いわざわざ面接をしてくださいました。そのおかげで、ありもしない中傷に押し潰されることなく無事に就職できました。そこでまたすばらしい保育所所長との出会いがあり、そのもとでいろいろ保育について学ぶことができました。 私は夏休みを利用して親友と2人で各地をまわりました。時間とお金の節約のため宿を取らず寝泊りは車の中です。(赤のカローラU)トイレ、お風呂、水道は必ずあるので何とかなるもです。 さて私も歳を重ね結婚するにあたりいろいろ悩んでおりました。電車に乗ってふと横を見ると東先生「これはいいところに」と早速結婚相談をしたのでありました。 それが今回、夫の転勤でしばらく埼玉に行くことになりました。絶対戻ることはないと思っていたひかりに帰ってこられたのです。これは私にとってまさに奇跡です。「東先生ただいまー!」とはしゃぎたいのを我慢して4月9日に「あの−武藤ですが・・」と電話を すると「えっ、武藤って明美ちゃん?」とすぐに気がついてくださり翌日面接に行くことになりました。そして面接も無事終わり入園の許可を出していただき、息子もひかりの子の仲間入りです。(でも本当に"ひかりの子"と感じたのはやはり手作りのかばんを持たせた連休明けからでした。やっぱりこれじゃなきゃ!) 係り活動もよくわからないままP連に入りました。そこで一気に多忙となり、3週間みっちり仕事をしたおかげでまだ3ヶ月しか経っていないのにすでに3年もひかりにいる気分です。P連で知り合ったお母さん方はもちろんのことひかりのお母さんパワーはスゴイ!「ひかりのお母さん達には本当によくやってもらって私はいつも頭の下がる思いです。」と東先生はよくおっしゃいますが本当にそのとおりです。それに素敵な方ばかりで友達作りがとても楽しみです。時代を逆行するひかりの方針に共感し、集まったお母さん方なのでやはりやる気が違います。 「できる人ができる時にできることを」この言葉が大好きで活動していた岐阜での育児サークルにも取り入れさせていただきました。東先生やみね先生とのお付き合いは長いですが実のところ知らない部分がたくさんありました。そんな時役に立ったのが「木洩れ日」であり、「広報ひかり」だったのです。おかげでひかりについていろいろ知ることができました。まさにひかりの歴史書で目に見える貴重な財産のひとつです。 私が園児だった頃はPTAの組織なしで様々な事をしていたそうです。園からの呼びかけがあれば保護者の積極的な奉仕活動への参加がありそれもスムースに事が運んでいたそうです。しかし狭山市立幼稚園PTA連合会の発足にともないひかりにも母体となるPTA組織が必要ということになりました。先輩お母さん方が準備委員会を設け、ひかり会についての協議を重ね原案を示し、それが承認され昭和50年度からひかり会の運営となるわけです。「会則にしばられない自由に動ける会則」にしたいというのがこの時の皆さんの一致した考えだったそうです。 東先生は、こう見えても還暦を過ぎています。保育にたくさんの仕事、日曜日には教会に出かけ、かなちゃんのお父さんであり、温子さんの夫でもあり、そして子ども達、私達の園長先生であられ、1人何役もこなしていらっしゃいます。夜もかなり遅くまで新館でお仕事をされている姿を何度も目にします。「早く休めばいいのに。」と心配しているのは私だ 私にとってひかりは幼少からずーと続いているかけがえのない場であり東先生は尊敬する大切な恩師です。私がそうであるようにひかりの子もお母さんも思いのある方はこれからも末永く関わっていかれると思います。いつでも誰でも温かく受け入れてくれるひかりに導かれたこと、神様に心から感謝いたします。最後にひかり会の貴重な時間をいただき皆様にも感謝いたします。では感謝の気持ちに・・・(当時使っていたオレンジ色のハーモニカを取り出しひかりの歌を吹く。)♪刀
2001年7月2日ひかり会定例会より
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