| 横田早紀江さん講演会記録
司会者 皆さん、こんばんは。ようこそご来場くださいました。最初に先ほどもお詫びを申し上げましたけれども、当初開場時間が5時から、開演が5時半からとなっておりましたけれども、その後の都合で変更いたしました。その変更が多くの方に伝わらなくて、大変なご迷惑をおかけしてしまったところがありますので、謹んでお詫びを申し上げます。只今より、学校法人石川学園狭山ひかり幼稚園の、創立40周年記念事業としまして、横田早紀江さんの講演会を始めます。会場での撮影等などは一切お控ください。席が少しあいているところがありますので、ぜひ詰めておかけくださいますようにお願い申し上げます。携帯電話の電源は、今のうちにお切りくださいますように、ご案内申し上げます。初めに、狭山ひかり幼稚園理事長の石川信男が開会のごあいさつを申しあげます。
石川理事長 皆さん、こんばんは。今日は火曜日、週日であるにも関わらずこのように、また忙しい時間にお集まりいただきまして、ありがとうございます。お手元にあるプログラムに、今回の催しについて若干ふれられておりますけれども、のちほどまた担当者から詳しい報告があろうかと思いますが、このような催しを始めたのは、私どもの幼稚園がこの狭山に生まれてちょうど40年になろうとしています。1970年のスタートですから、あともうちょっとで40歳になろうとしていますが、狭山市はもとより近隣の市町村の方々のご協力によって40歳を今むかえようとして、何をしようかということを考えました。さまざまなことが考えられたわけですけれども、今というよりはもう数年前から問題になっています日本人にとっての基本的な人権を考えてみよう、そういうテーマを掲げてみました。今日は普段ですとマスメディアを通して映像とか文字とか電波によってしか触れることのできない共同空間の中での横田さんの声を、肉声を聞くことによって私たちが横田さんのもっておられる悩み、苦しみ、憤りといったものを共有し、助け合いたいという機会になれば大変うれしく思っております。どうぞ終りに至りますまで、ご静聴いただければ幸いです。高い所からの挨拶で、失礼いたしました。
司会者 では講演に先立ちまして、岩渕まこと、由美子ご夫妻のミニコンサートをいたします。狭山市在住の岩渕さんご夫妻は、当ひかり幼稚園とのかかわりも長くありまして、創立40周年記念事業の実行委員に名を連ねてくださっている方でもあります。また一方で、横田早紀江さんにとっては、横田めぐみさんの歌「コスモスのように」の曲を作ってくださり、また歌っておられる、そういう関係もある方です。狭山での講演会にあたりまして、横田早紀江さんから岩渕さんに歌ってほしいという希望がありまして、岩渕さんもご快諾をくださいました。こういう組み合わせは、この狭山でなければできなかったでしょうから、大変感謝をしております。横田さんを狭山に歓迎する歌声でもあり、また横田さんのお話を伺うに当たって私たちが心を導いてもらうような、そんな歌声でもあろうかと思います。では岩渕まことさん、由美子さんご夫妻を心からの拍手でお迎えしましょう。
岩渕まこと・由美子 こんばんは。岩渕まこと、そして由美子と申します。よろしくお願いします。
今ご紹介いただいたように、地元なものですから、地元で歌う独特な緊張感が今襲ってきておりまして、たまにサティなどに私によく似た汚い男が買い物をしているかもしれませんけれども、それは私ではありませんので。私なわけですけれども。
今日はしばらく歌わせていただきたいと思います。ひかり幼稚園が来年で40周年を迎えられるということで、この特別な企画のなかで私たちもそこに加えていただけたことを、本当にうれしく思いますし、また楽しみにやってきました。最初は「日日草」という歌から歌います。
(演奏)
今日も一つ悲しいことがあった
今日もまた一つうれしいことがあった
笑ったり泣いたり望んだり諦めたり憎んだり愛したり・・・
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほどたくさんの平凡なことがあった
この詩はファンの方がたくさんいらっしゃると思うんですが、星野富弘さんという花の詩画集をずっと作り続けていらっしゃる、その方の日日草という詩に、私が作曲させていただいて、そして出たアルバムの中から歌わせていただきました。
私たち夫婦は、実は高校時代に出会っていまして、一緒にバンドをやっていたんですね。高一コースとかいう本があったのをご存じです? 自覚症状がある方はいらっしゃいますか。あんまりいないですね。無理しないで、知っている方は正直に手を挙げたほうがいいと思います。そういうグラビアなんかに、仙台が出身なものですから、東北に咲いたフォークの花、とか言って記事が載ったり、それからレコードデビューするという、そんな話があって、デビューするかしないかでもめて解散したという珍しいバンドをやっていたんですけれども、まさか50歳を過ぎてこうしてまた二人で歌わせていただくようになるとは思いもしませんでした。生きているということは楽しいものだなと、あらためて思っています。その日日草のなかから、今度は彼女が歌う歌を一曲お聞きください。「花」という曲です。
(演奏)
悲しくて花を見れば
花はともに 悲しみ
うれしくて 花を見れば
花はともに喜び
こころ荒れた日 花を見れば
花は静かに咲く.
昨年の夏に一つのお話をいただいたんですね。それは横田早紀江さんを支援していらっしゃる方のお一人からでした。これは去年でめぐみさんが拉致されて30年になる。私たち一人一人の心から拉致の問題が消えて行ってしまうこと、かすんで行ってしまうこと、それが横田さんご夫妻はもちろんのこと、拉致の被害に遭っている皆さんのとても怖いこと、恐ろしいこと、なくなってしまったらそれでもうそれでおしまい。ですから、30年ということもあって何か一つの歌を作れないだろうか。そんなお話をいただきました。
正直いって私は自分にそんなことができるのかどうか非常に迷いましたし、いったい曲を作らせた相手も何ができるのだろうかという戸惑いもありました。でも親として考えたら、こんな理不尽なことはない。親として何か少しでもできるんだったら、もういろんなごちゃごちゃしたことは横に置いて、私も少しでも応援させていただくというのでしょうか、そういうことができたらうれしいなと思って曲作りをさせていただく、そんなことを決めました。コスモスのようにと言う歌が生まれたんですけれども、その歌を作った後に自分自身本当にコスモスを見る気持ちが変わってしまいまして、今年はそれこその辺を散歩しながらコスモスを見るんですが、あの歌を作ってからもう1年が過ぎたな、そんなことを思いました。
そして今日ここで歌わせていただく、そのことを思った時に私も一つの歌を作らせていただかなくちゃと思いまして、新しい歌を一つ作って今日はやって来ました。「あなたが微笑んで」というそんな曲を聴いてください。
(演奏)
私は願う すべての人が 生きるべき場所にあれることを
私は願う すべての人が 卑しめられずに生きることを
世界の父たちや母たちの
涙が涸れる前に
あなたをこの手に抱きしめる日が
あなたをこの手に抱きしめる日が
今日であるように
私は願う すべての人が 生きるべき場所で生きることを
私は願う すべての人が いのちの喜び 始まるように
世界の息子たちや娘たちの
叫びが涸れる前に
あなたが笑顔で駆けてくる日が
あなたが笑顔で駆けてくる日が
今日であるように
あなたをこの手に抱きしめる日が
あなたをこの手に抱きしめる日が
今日であるように
私は詩を書き始めたんですね。でもどうしても詩を書くことができませんでした。早紀江さんご夫妻のことを思っても、めぐみさんのことを思っても、どうしても具体的な詩のイメージが出てこない。早紀江さんにお会いした時に、「どうしても詩が生まれないんです。」そんなお話をしたら、早紀江さんが昔話をしてくださったんですね。
新潟時代のことでした。めぐみさんはとてもひょうきんなというか、楽しいお茶目な娘さんだったようです。早紀江さんは花を育てるのが大好きで、お庭にいろんな花を育てている。でも早紀江さんが育てた花の一つ一つは、標準以上に大きく、立派に育つんだそうです。それをめぐみさんが冷やかして、「お母さん、お母さんの育てたあのひまわりって、木みたいだよね」って言ったり、それから「お母さんのコスモス、普通私が他でみるコスモスは、風が吹くとみんなふわーって揺れているのに、お母さんのコスモスは風が吹いてもしっかり立っているよね。」って言って冷やかしたり、そんな子だったんですよ、って言って、早紀江さんが遠くを見られたんですね。
その時に、母と娘の笑っている、そして何か楽しそうにしている姿が浮かんできました。そしてそこにはコスモスの色がちりばめてあったんですね。私はそのまま詩にしてくださったら曲をつけさせていただきます、そんなことを申し上げてお別れしたんですけれども、1週間ほどして早紀江さんから詩が送られてきました。その詩は「コスモスのように」という詩でした。その曲を歌わせていただきます。「コスモスのように」
(演奏)
ふわふわと
ゆれているコスモスに
ほら!めぐみちゃん
トンボが とまろうとしているよ
今年も…
コスモスって何だか弱々しく
ゆれている花なのに
ほら!お母さん
お母さんが育てたコスモスって
茎が太く 花も大きくって
風にもゆれないよ
ふわふわと
ゆれているコスモスに
ほら!めぐみちゃん
トンボが とまろうとしているよ
今年も…
遠い空の向こうにいる
めぐみちゃん あなたも
お母さんが育てたあのコスモスのように
地に足をふんばって生きているのねきっと
しっかりと頭を揚げて生きているのねきっと
この「コスモスのように」は5月にCD化されまして、今日もロビーのほうに販売させていただいています。その収益金はもちろん支援のほうに使われますので、ぜひお買い求めいただけたらと思います。そしてこの歌が日本中で歌われるようになって、歌が祈りのように登っていく、集まっていく、そんなことを願って作りました。ですから中には歌っていただけるようにカラオケなどもありますし、そして早紀江さんご自身が朗読していらっしゃる、そんな録音も入っています。ぜひお買い求めいただけたら嬉しいなと思います。
それからこのブルーリボンのバッチ、もちろんロビーにありますし、そのCDと同時に、これはどちらかと言うと若い方向けにブルーリボンのシールというのも発売されました。私は車の後ろにも張っていますし、それから携帯にも貼ってあります。携帯を電車の中で広げると、向い側の方にはブルーのリボンが見えるという、そういう感じで貼っています。やっぱりそのブルーの色が日本中に増えていったら、日本中にあふれていったらいろんなところの扉が開かざるを得なくなるのではないかな、そんな期待を私は持っています。
もう一曲歌って、私たちの時間を終わりにしたいと思いますが、星野富弘さんの詩に「小さな実」というそんな詩があります。私たちにできることは小さいけれども、でも感謝してそれをしたら、もっと大きな、いやそれは大きなことなんだ。そんな私手たちの小さな思い一つ一つを、今晩も一つにできたらうれしいなと思います。
(演奏)
私にできることは小さなこと
でもそれを感謝してできたら
きっと大きなことだ
司会者 どうもありがとうございました。
岩渕まことさん、由美子さん、本当にありがとうございました。舞台を整える間、横田早紀江さんのご紹介を、狭山ひかり幼稚園前園長であり、創立40周年記念事業実行委員長の東喜代雄が申し上げます。
東喜代雄前園長 皆さん、こんばんは。さっきから感動しております。何しろ横田早紀江さんを狭山に招いたこと。そしてこうして大勢、最初は小ホールにしようかと思いましたが、中ホールで大丈夫かなと思って中ホールにしましたが、ついに入りきらずに大ホールになってしまいました。こうして大勢の皆さんと一緒に、横田早紀江さんのお心に寄り添い合うことができたことを、本当に感謝しております。
昨日までマイクロホンで街を宣伝してまわりました。中には、なんで幼稚園がこんな講演会をやるの、という質問がありました。実は私たちは幼稚園で教えること、学校で教えることといいますか、たった3つしかないと思っているんです。
ひとつは、人権ということです。人間って、あの人はレベルが高いとか、価値があるとか、いてもいなくてもいいとかどうとか、そんな人は一人もいないと私は確信を持っています。もう生まれたときから深い意味があって、計画があって、訳があって、その家庭にこの子供と授けられた尊い尊いかけがえのない、誰にも変えられない子どもだと信じています。幼稚園で40年間大勢のいろんな人を迎えましたが、この確信はますます年とともに深まっています。
それから2番目は、平和を教えることなんです。私は行進もやったこともないし、人権擁護委員でも弁護士でも国連の職員でも、そういったことは全然やったことはないのですが、子どもたちは幼稚園の庭でけんかをしたり、ぶつかり合ったり、いさかいをやったり、さまざまにやってくれます。あれは人生どう生きればいいのか、こういうトラブったときにどういうふうに身を処して言葉をはいて、ひいて、押して、どうすればいいのかというのを、いわば人生をあそこで学んでいると思っています。ですから、私はそういう世界一級の仕事をしているわけではありませんが、世界の最前線で第一級の仕事をしていると、かっこいいな、思っているんですよ。
3番目は、環境です。お互いに街を住みよくする、地域社会を、地球を守ると。これは私たちが学校でやらなければならないことだと思っています。
そういうわけで、こどもたちにこの人権ということを教えますと、どうしても人権蹂躙のことを見過ごすわけにはいかないんです。横田さんのニュースを聞くたびに、私はこのままでいいのだろうか、何かしてあげると言ってはいけませんね、何か私はなすべきではないか、という思いをずっと抱いてきました。そしておそるおそる声をかけましたら、行きますよ、と言ってくださいました。
実はこれには様々な伏線がありまして、大変感謝しているんです。こういうチラシを皆さんご覧になったでしょうか。横田早紀江さんです。めぐみちゃん。ここに「Help me, Save me.」と書いてありますが、この日本語訳をつけたのは、ここに、その次の日に送られてきたFAXがあります。横田早紀江さん、ここにブッシュ大統領、横田さんの息子さん、でここに立っている外国人がいます。これが、ポール・ハーシーと言いまして、高校生まで狭山市民でした。うちのすぐ近くに住んでいまして、今はライス国務長官が来てもブッシュ大統領が来ても必ず日本語の通訳にくるこのおっちゃんが、私たちの仲間でこの横田さんに深い関係があったんです。
それで幼稚園で何とかこの横田さんをお迎えできないかと思って、子供達と模索をしました。実はこの看板は、夕べ私が仕事が終わってから2時くらいまでかかってこれを書いたんです。子供たちにも前から、めぐみさんというのはとても自然が好き、花が好き、鳥が好きと言っておりました。それで子供たちがそういったのを描きました。一番左上にあるのは、横田さんのめぐみちゃんだそうです。その隣がお母さんです。寄り添っています。真中にブルーリボンが花盛りであります。
時間がきたようですね。ごめんなさい。駄弁を弄しましたが、横田さんをお迎えしたいと思います。もうご案内は、皆さんがよくご存じなので省きます。横田さん、どうぞ。お待ちしておりました。ようこそ狭山へ。
横田早紀江さん 狭山の皆様、今晩は。今日は狭山ひかり幼稚園の40周年記念を迎えるにあたってのこのような会に、拉致被害者のお話を聞いてくださるということでお招きをいただきまして、本当に感謝でいっぱいでございます。
皆様、もう今は拉致問題ということをあらゆる報道でお聞きになっていると思います。めぐみのいなくなりましたのは、31年前なんです。1977年、52年ですね。52年の11月15日にめぐみはいつものように、行ってまいります、と言って新潟の自宅を出ました。お友達、バドミントンのダブルスのお友達が一緒に、いつも迎えにきてくださるものですから、一緒に出かけていきまして、その声が最後で、31年間めぐみの姿は本当に声も聞くこともできない、何もわからない、そして20年間という長い間どんなに捜索をしていただいても誰一人目撃者もなく、どんな米粒ひとつもめぐみの消息は知れませんでした。
私たちは、どうしてこんな不思議なことが起きるんだろう、そして警察犬がすぐに出まして、めぐみのパジャマを嗅がせまして、警察犬がその時すぐに出まして、めぐみがお友達二人と三人で学校からずっと、こちらが日本海なんですが、まっすぐの道を歩いてきて、交差点の向こうで別れてひとりになって、本当に家のすぐ曲がり角のところまで警察犬はにおいを追って歩いてきました。けれども、この角の、曲がり角からすぐのところがうちなんですけれども、この角のところで警察犬は絶対に動かないんです。うちのほうにも曲がらない。そして日本海のほうに向かってもあるかない。日本海のすぐこちら側は護国神社といいまして非常にさびしい、夜はもう真っ暗のような松林と海鳴りが聞こえているようなさびしいところでしたので、そんなところに行くはずがないし、そしてこの通りのもうひと筋、向こうの通りまで全部空地だったんです。非常に寂しく、街灯がぽつんぽつんと点いているような暗い道でしたので、転勤したときからなんだか不気味なところだから、気をつけなさいということは、3人の子供たちにいつも言っておりました。けれどもテレビの呼びかけ番組というのがそのころにありまして、何でいなくなったのかが分からないという苦悩の中で、5回くらいテレビ番組に出て、めぐみちゃん!と言って呼びかけたんです。写真を持って、みなさんどうかこの子をみたことがある方は教えてください、と言って叫んだんですけれども、5回とも何もうちの子に限っては全く情報が得られませんでした。他の方はみな、よく似ている人がパン屋さんで働いているとか、いろんなことで分かるんですが、どうしてもめぐみの消息は分からなかったんです。
それで私たちはもう悲しみのどん底で気が狂うような、本当に畳をかきむしって絶叫して泣いたり、そして海岸を歩いて棒を持って、砂を何か落ちてないかと何度探して歩いたかわからないんです。子供達はまだ3年生でしたので、下の二人が、何とか元気でいてもらわなければ、私が倒れたら大変だわと思いながらも、人間には限りがあって、どうしてこんな恐ろしい人生になるんだろう、何を悪いことしてきたんだろうと自分を責め、そしていろんなことを考えて、もう苦しくて苦しくてたまらない悲しい毎日を過ごしておりました時に、たまたま私たちの家のすぐ近いところで、マク・ダニエルという先生のご夫妻が、宣教師なんですが、聖書の会をもっていらっしゃいました。ご自宅はすぐ近い所にあったんですが、今日もこの今のこの幼稚園のゆかりの先生でいらっしゃって、斉藤眞紀子先生という方が新潟の海辺の教会のすぐ近くにおられて、その教会に通っておられまして、そしてそこからダニエルさんのお宅のほうまで、聖書を学ぶ会のリーダーとして来られていまして、その辺の近隣のお母さんたちがそこに集まって、聖書を学ぶ会をしていらっしゃいました。
そのころ私たちは、本当に気が狂うような、絶望のどん底の叩きのめされた、打ちのめされた人格破壊のような状態の中で、いろいろな宗教の方が我が家をおとずれました。★おおやまねずのみことだとか、いろんなところが、もうどこからくるのかと思うほどの人が、「あなたはもっとたくさんのものを貢げば、子供の消息はわかりますよ」とか、「あなたの先祖の行いが悪かったからこんな事が起きるんですよ」とか、本当に悲しいなかにまた追い打ちをかけるような悲しい思いをしながら、私は泣き続けておりました。
そのときにマク・ダニエルさんの、キリスト教の集会に一度来てみませんか、というお誘いを受けて、そこにお友達が連れて行ってくださったことによって、そしてその中の一人が、「聖書を読んでね」と言って、私の悲しんでいるおうちの玄関に、ポンとぶ厚い聖書を一冊置いて行かれたんですね。その時に私はもうそれをいただいたけれども、毎日毎日目が腫れあがって、泣き暮らしているこんな時に、どうしてこんなぶ厚くて細かい字がぎっちりと書いてある、ページも何ページあるか分からないようなこんなものが何で読めるんだろうって、なんていうものを持ってくる人なんだろうって、本当に今から思えばそんなことを思って、いつもテーブルの上にポンと置きっぱなしの聖書でありましたけれども、あまりの苦しさの中でどんなに新潟の街角、あらゆるところを一人で歩き回って、そしてどこかのマンションにめぐみの衣類が干してないかとか、あの辺に閉じ込められているのかもしれないとか、そして畑の中にちょっと盛り上がっているところがあると、きっとあそこの中にやられてしまって、埋められているんじゃないか、海の中に放りこまれているんじゃないか、もう海から遺体があがってくるんじゃないか、冬が過ぎればあの雪の山に登って、めぐみの遺体が出てくるかもしれないから、そういうことも思っておりました。そしてそのころには、新潟の市の焼却炉のなかから女の方の焼死体が出てきたこともありました。めぐみさんかもしれません、ということで「めぐみさんは今日腕時計を持っていきましたか」と警察の方に言われて、私は思わずめぐみの机の引き出しを開けて、めぐみの腕時計があったので、ああ、そうだ。これはバドミントンの強化選手に選ばれて毎日練習が大変だから、こんなのはちょっと邪魔になるから置いていくわって、そうそう言っていた言っていたと思って、開けた時にめぐみの腕時計が見つかった時は本当にほっとしました。そしていろんな毛髪とかの検査をしてくださった結果、それはめぐみのものではなかったということで、ああよかったね、と言ってくださったんです。
そしてまた日本海の、少し沖のほうから、漁船の網に引っ掛かった、ちょっと小さめの女性頭蓋骨が引き上げられてきました。こんどこそこれはめぐみさんかもしれない、また警察がすぐに飛んで来られて、前任地の広島の歯医者さんから大急ぎで歯のカルテを取り寄せてくださいと言われました。本当に気が狂わんばかりの時にこのような衝撃というのは、体中がよくこんなに震えると思うほど震えっぱなしで、歯の根が合わないというそういう感じを経験いたしました。そしてすぐにそちらのほうの歯医者さんからカルテを送っていただきまして、そして警察の中央署に自転車のペダルもこげないような形で、赤信号も無視でどなられながら飛び込んだのを覚えておりますが、本当に幸いにもそれはめぐみのものでなかったことで、ああよかったね、ということもありました。
そのような苦しみのなかで、わたしは本当に何が悪かったんだろう、どうしてだったんだろう、こんなに一生懸命に育ててきて、あんなに明るい元気な子だったのに、どうしていけなかったんだろう、と思って悩み続けている時に、そのバイブルクラスの一人のお友達が私に道を歩きながら、「昨日聖書を開いたら、私もまだクリスチャンじゃないけれど、何でこんなところが出てきたのか分からないけれど、不思議なところが示されたのよ。難しいことだけれど」と言って教えてくださったことばが、このような言葉でありました。キリストの弟子たちは、質問をしました。イエス様に質問をしました。一人の盲人を見て、弟子たちは言いました。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したのですか。この人ですか。その両親ですか。」と、問いました。
「イエスは言われた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の技がこの人に現れるためです。」」という言葉。この言葉が出てきたのよ、とおっしゃってくださいました。「非常に難しいことね。でもきっと何か分かる時がくるのよね」、ということで、それを一つの希望として歩んでまいりました。
そして私はその言葉のなかでかんじたことを、不思議な言葉が書いてあるんだなと、この聖書は。何が書いてあるんだろうと、そのお友達が置いていってくださった時に、ヨブ記を読んでね、といって帰られたんです。見たこともない。うちは京都生まれですから、日本の神様だけを信じて、仏様と神様につかえてきたものですから、そんなものを読んだことがありません。けれども私はもう本当に何かを知りたい。何なんだろう。生きていくって何なんだろう。どうしたらいいんだろう、っていう、本当に無我夢中で聖書を開きました。そしてヨブ記と言ったな、彼女がヨブ記と言ったのは、一体なんだろう、そういう思いでそのヨブという人の一生が書かれているところを読むことができました時に、そのヨブ記の1章21節にこういうところがありました。
「私は裸で母の胎から出てきた。また私は裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな。」
と書かれてありました。本当に私たちは、人間と言うものは何と小さなものなのだろうと思いました。この大きな宇宙のなかに浮かんでいる地球のなかに、きれいなきれいな青い地球のなかに、海があり、美しい自然があり、いろいろな生きものが生かされています。そして人間もそのなかに生かされている小さな小さな一粒の、宇宙から見れば本当にほこりのように見えないような存在のものがいるのに、そのなかでいろんなことか起きていく。おそろしいことが起きていく、ということは何なんだろうと、本当に深く考えさせられました。それは見えない中で、その人間の一つの心の中に宿っている罪と言うもの、悪と言う心。だれもが持ち合わせている、こちらとこちらとどちらかを選ばなければならない時に、どうしても良いほうよりこっちのほうをしたほうが得だからこちらに行ってしまうという、そういう思いがだれもがあるような気がするのです。そういうものを、すべてを神様は全部ご存じであり、そしてすべてのことを悪いな、こんなことはいやだと思っているときでも、必ずそれを良いことにみちびいてくださるための道筋を与えてくださったのだなと言うことを、少しずつ感じていくようになりました。
ローマ書というところがあって、5章の2節から4節にある言葉のなかにも、患難、私たちがこうして受けている患難なんですが、患難が忍耐を生み出し、忍耐が錬られた品性を生み出し、錬られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることがありません、と言う力強い言葉が書かれてありました。このような患難ななかで、神様は何をなさろうとしているのだろう。私たちはこんなに苦しまなければならないけれども、それがどんなふうに波及していくのだろう、というような思いにさせられて、私は本当にこのみ言葉のなかでたくさんの言葉を学ばせていただき、教会に集わせていただき、そして長いことかかってやっと洗礼を受けることができました。神様のただ一方的な恵みによって、救い出していただくことができました。
そしてその中で、こんなに長く、まだ解決していませんが、31年もたってしまって、めぐみは13歳のあのかわいい女学生のあの姿しか私たちは見ていることはありませんが、向こうではもう44歳になっているんです。そしてこの角で、どうして消えてしまったんだろうと、私はいつもこの角で何があったんだろうと思い続けていたんですが、それは曽我ひとみさんという方が、帰国者の中で政府が認定していないお名前も挙がっていなかった人が、帰国者のなかに混じってかえって来られたことが始まりです。だれもが、あんな人が、あの人も北朝鮮に連れていかれていたんだ、とみんながびっくりして見ていた人だったんですが、そのひとみさんが帰って来られて、私たちにお話をしてくださったなかで、やっとここに何があったのかということを知ることができました。
ひとみさんは、めぐみの1年後に北朝鮮の工作員に拉致をされました。そしてお母様と一緒でした。二人とも拉致をされました。けれどもお母様の姿はあちらにはありませんし、入国していないとあちらは言っていますし、帰って来られても、日本に返したといわれているお母さんはこちらにはいらっしゃいません。そしてその時にひとみさんは連れていかれてすぐに向こうの監視員に連れられて、めぐみが住んでいる招待所という、1年前からそこで朝鮮語、朝鮮史、いろいろむこうの主体(チェチュ)思想というんですか、そういうものとかを一生懸命に教えられていたそうですが、勉強していたんです。そこに曽我さんは1年後につれて来られて、今日からあなたはこの人と一緒に、この招待所で勉強しなさいと、つれていかれましたとおっしゃいました。その時に、パタッと二人が会ったとき、本当に二人は日本人の若い二人はどんなに喜んだことでしょうか。めぐみもあの船の中で絶叫して泣き叫んで、壁をかきむしって、先ほどの言葉にありますように、Help me,Save me.と言う言葉で英語は表現してくださいましたけれども、私を止めて、私を助けてと言いながら、運ばれていっためぐみと、曽我ひとみさんは会いました。そして、「こんにちは、とめぐみちゃんが親しく言ってくれたんです」と言ってくださいました。そしてその時に二人でお茶を飲んだり、お菓子を食べたりして休む時に初めて、曽我ひとみさんは自分がどうやってここに連れてこられたのかをめぐみにお話をしてくださったそうです。「私は新潟の佐渡に住んでいたのよ。そしてある夜お母さんと二人で海岸通りの道を、お買い物に出かけていった時に、突然後ろから3、4人の男性がダーッと追いついてきて、ガッと二人を捕まえて、そして植え込みの陰に引きづりこまれて、あっという間にさるぐつわをかけられ、目隠しをされ、手錠をはめられ、そしてぐるぐる巻きにされて麻袋をかぶせられ、そして担がれて浜辺まで運ばれて、船でここまで連れてこられたのよ」と言いました、とおっしゃっていました。
それを聞いてめぐみちゃんはびっくりして、「ああそうだったの。実は私もお友達と3人でバドミントンの練習の後帰ってきたときに、二人と別れてこの角まで来た時に、ここで男の人に捕まえられて、そして北朝鮮に、ここにつれて来られたのよと言っていましたよ」ということを教えてくださいました。
それがどういう男の人だったのか、北朝鮮の工作員だったのか、それともその工作員を援助して協力するような協力者だったのか、近くに住んでいる、それこそ普通に暮らしている日本の協力者だったのか、それは全く私たちにはわかりません。警察がつかんでいるのかどうかもわかりません。つかんでいてもおっしゃらないのか、それも分かりません。全く分からないで、ただそのことがめぐみの口から出たことばとして本当だったということを初めて曽我さんがお帰りになった20年後に分かったわけです。
そして私たちはめぐみが本当に絶対に死んでいないと、必ずあの子は強い子だから生きているんだと思い続けて祈りつづけてきましたことが、生きてるんですということを知らされた時には、本当にうれしくおもいました。ああよかった、生きていたんだ。やっぱり生きていたって、大喜びしたんです。もう1、2年もすれば会えるに違いないと思っていたのですけれども、この問題は大変難しい問題でした。歴史的に流れがあって、本当に昔からの日朝関係とか、朝鮮半島との関係とかの歴史のなかにある一つの問題として、非常に解決が難しい問題なんだということを知らされました。そして私たちは政府に向かって、何とか助けてくださいということをお願いしなければいけないということで、家族会、蓮池さんや、ほかの多くの帰国された方やまだ帰国されなかった増元さんたち、皆さんと一緒に家族会を作りまして、みんなで団結して政府に救出をお願いしようということで、本当に一生懸命に活動してきました。
そしてその間救う会という会を全国で建て上げてくださいまして、今もまだ本当に変わらないご支援を、心からのご支援をしていただいて、全国の皆様からもこのように講演にお呼びいただいて、もう私たちは全県全部回らせていただきました。石垣島から北海道まで四国も全部回らせていただいて、千回を超える講演をさせていただいてきました。もうくたくたになっておりますが、全国の支援の皆様がたが本当にたくさんの署名を集めてくださり、600万名という今までにないほど大きな署名数をいただいて、官邸に提出させていただいております。またたくさんの活動費がいりますので、私たちは本当に普通の庶民でしかありませんので、何にもできません。その間に皆さんがどれだけ沢山のご支援をいただいたことかわかりません。本当にたくさんのカンパを頂戴いたしまして、家族会が立ちあがってきました。今回までこうして31年間も、活動して11年間あまりもこのように活動が続けられましたことは、本当に全国の皆様方の温かいご支援のなかで、お心遣いのなかでやっと今日まで何とか持ちこたえてやってきたということを、本当に感謝しております。ありがとうございます。
それで私たちは、もうそれだけ頑張っても頑張っても、ジュネーブの国連のほうに行ってお願いをしてきても、またワシントンには3回も行って、最後にはブッシュさんにもお目にかかりましたけれども、どんなにやっても総理大臣は次から次からと変わっていかれます。もう今度の麻生さんで7人目の総理です。私たちは、今回こそ今度こそ今度こそと、みんなその総理に心を預けて、お願いします。一刻も早く助けてください。あちらで毎日お月さまを見ながら、助けを求めているんです。命のほうが大事なんです。命をすぐ助けなければ、今日助けていたら助かったかもしれないのに、明日ではもう遅いかもしれないんですと、みんなにそういってお願いしてきましたけれども、かえって来られたのはたった5名とご家族だけで、あとは全く進展がありません。
私たちは何回あの官邸の門をくぐり、あの官邸の廊下を通り、そして官邸の大きな広間で、お願いします、お願いしますと言いづけたことでしょう。何度外務省に伺ったことでしょうか。内閣府に伺い、あらゆる大使館に伺い、本当にこれ以上何をしたらいいのか分からないほどのたくさんのことをがんばってきましたけれども、難しい問題はなかなか進展していかないで、いろいろなうわさばっかりが、めぐみのことに関してもでてきます。いろんな週刊誌が書いていますけれども、政府は、政府にお聞きすると、そんなことは全く私たちは知りませんとおっしゃいますので、本当のことが全く分からない。
31年昔のあのままめぐみたちの姿は見えないままなんですが、けれども私たちが運動してきまして、皆様がたのご支援をいただいたなかで、活動がここまで来たなかで、本当に思いがけないめぐみのあの頃の白いブラウスの写真が、成長しためぐみの2枚の写真とともに、またラケット、そしてめぐみが20歳ころの写真ですというものが、ヘギョンさんという孫が生まれていて、それを持って現れたり、そしてキム・ヨンナムさんというめぐみの夫だといわれる人が現れたり、本当に学生証とか寄居中学校の学生証とかそんなものまでがきれいに残されていて、それが現れたり、全く何の米粒ひとつ分からなかったことが祈りと活動の中でやっぱりそれはやったことは白日に現れてきているということを私たちは確信しているんです。
そして必ずめぐみは生きていると私は信じていますし、骨というものが持って来られた時は本当にびっくりして、もう本当に真白、真っ暗という思いでしたけれども、藪中局長が、これがめぐみさんの骨でございますと白い包みに囲んだものを私たちの前に出された時に、私はこれをめぐみの骨と思っておりません、とはっきり申しましたけれども、めぐみの白いブラウスの写真を見たとき、出された時は本当に私はものすごいショックを受けました。あの時連れていかれて半年めくらいに写された写真だと思います。有本恵子さんもほかの方もみんないろんな写真を撮られています。どうして撮るのか分かりませんけれども、その写真を持って見せられた時、あのめぐみの白いブラウスの学生服をどれだけ私たちが長い年月、浜辺や街々を絶叫しながら涙を流し続けて探しつづけた、それでも見つからなかったあの子の姿が、小さな小さなこの写真の中に、なんという悲しい表情で写っていたことでしょうか。一緒にいた弟たちも、めったに泣かない子ですけれども、思わず嗚咽をしておりました。私はその写真の目を見て思いました。「お母さん、私は死んでなんかいないのよ。ここにいるのよ。だけど何にも言えないのよ。助けてって言えないのよ」、と言いながら悲しそうな目でじっと私たちを見つめておりました。私は思わずその写真を手に取って、「ああ、めぐみちゃん、こんなところにいたのね。まだ助けてあげられなくてごめんね」って思わず言いました。弟たちも本当に声を出して泣いておりました。そんなことがあって、その偽の骨ということが分かるまでの期間を私たちは本当に苦しい思いで耐えておりましたけれども、その鑑定がおかげさまでめぐみのものでない、他の二人の人のDNAの骨が現れてきて、めぐみさんの骨ではありませんと言うことをはっきりと言っていただいた時に、「ああ、やっぱり生きているんだ。やっぱり神様は守っていて下さるんだ。神様ありがとうございます」と思わず言いました。
本当に私たちは試練の中にもありますが、「確かに主は来られる、確かに地を裁くために来られる。主は義を持って世界を裁き、その真実を持って国々の民を裁かれる」、と書かれてあります。時は分かりませんけれども、神様は本当に真実の方であり、愛の神様でありますから、一人ひとりの人生を、いろんな苦難がありますけれども、絶対にその苦難がマイナスにならない、希望、この希望は失望に終わることがないとおっしゃる神様のおっしゃることは、本当に間違いがないと思います。
こんなに大変な苦しい人生のなかで、どれだけ素晴らしい方々にたくさんで会わせていただいたか分かりません。どれだけ多くの温かい恵みを受けたかわかりません。知らなかったことを、感謝のことを、本当に心に感ずるこころを与えていただいたこと、これは本当にこの大変な苦難のなかで患難のなかでいただいた大きな恵みであります。そしてまだ神様はこのように確かに世界を裁かれる方であります。そしてその真実をもって国々の民を裁かれる方であります。大きな大きな、本当に宇宙に存在していらっしゃる、目に見えないお方ですけれども、そこいらへんにあるような石の神様だとか、木の神様だとか、紙で作られた神様だとかそのようなものではなくて、ほんとうに見えないけれども、宇宙に存在していらっしゃる大きな方が、地球も月も星も太陽も含めて、人間すべて全知全能のすべのもの、すべてを力を持って裁かれる方であり、愛していらっしゃる方であり、そしてご自分の大切なたった一人のイエス・キリストというお子さんを十字架につけられて、そしてものすごい厳しい十字架の血を流されて、それでもイエス・キリストは、「この人たちは私に何をしているのか、自分で分からないのです。この人たちを赦してください。この人たちの罪を赦してください」とそのような苦しみの中で心で泣きながら許しを神様に、父に願って死んでいかれた方。そのお方に私たちは本当に救われて今日まで歩ませていただいてくることができました。
北朝鮮は私たちが思っているような生易しい国ではありません。本当に私たちはあまりにも平和なものにあふれた、そして戦争を放棄して軍備も全くしない、これで平和を得ました。何でも自由です、という世の中で、本当に自由に平和にまみれて、私も含めて生きてまいりました。戦争後の日本は本当に豊かです。北朝鮮には強制収容所というところがあって、何の罪もない政治犯とか、ちょっと上のものに対して不満を言った人たちとか、そういう人達をすぐに引っ張って、牢獄、そこで死ぬしかないというような収容所というところがあって、そこは何十万という人たちが罪なく放り込まれていると聞いております。
またそこから逃げてきたカン・チョルファンさんという青年は、そちらで家族ともに政治犯で放り込まれて、9歳のときからそこで青年になるまで、それをつぶさに見てきました。何という恐ろしい人間の生活があるんだろう。お父さん、お母さん、おばあさんが一体何をしたんだろう、私たちは何でこんな目にあって死んでいくのかと、こんなことは許されることじゃない、必ず僕は大きくなったら世界中にこのことを知らせなければならない。必ず。そう思いながらその国の強制収容所のなかですごいことをいっぱい見ながら我慢をして暮らしてきました。そして成人したある日、彼はひとりの友人と一緒に脱北する計画を立てて、そして電流が通っている鉄条網をお友達を踏み台にして、逃げてくることができたんです。お友達は電流に引っ掛かって、亡くなってしまわれたそうですが、その方は本当に必死に逃げてきて、やっと向こうから逃げてくることができたんです。そして韓国に今住んで、北朝鮮の人権についてどれだけ一生懸命に働いているかわかりません。彼は私たちとこのような講演会で招かれました時に、一緒にお話をしてくださったことがありました。素晴らしい青年になっておられました。そしてこのようにして講演の時に話しておられましたけれども、まだ私の親族はあの恐ろしい地獄のような強制収容所に入ったままなんです。早く助けてあげたい。もっとたくさんの人がきちきちの部屋に詰め込まれたままで、寝ることも座ることもできない。前の人のところに足を出してきちっと詰め込まれた、4畳半くらいのところに何十人という人がそのままで寝させられて、朝ちょっとだけのお粥をもらって、1日棒でたたかれながら労役をさせられている。そのようなことをみんな見てきて知っているわけです。子供たちがちょっと何かを言ったとしたときに、すぐに子供であっても火のところに背中をあぶって、ものすごいやけどをさせてしまうようなそのような恐ろしいこと。公開処刑なんかをみんな民衆に見せているというような、そういう国が拉致をして、そしてそこに私たちの子供たちはいるわけです。けれどもそんなところにいるのか、どこにいるのか、私たちは分かりませんけれども、その国が拉致だけでなくて偽ドルとか麻薬、そして不審船、皆さまご存じのように運んでいくための船ですね。不審船をもったり、そしてテポドンを飛ばしたり、そしていよいよ私たち世界中が恐れていた核を保有することになってしまいました。そしてそれは核と言うものは、本当にこれは広島と長崎で日本は経験済みですけれども、人間にとってものすごい大変なことです。危機の最長のものです。そして命にかかわりがありますし、地球の破滅を絵にするようなものです。そしてそのようなことを平然とするような国がそういうものを持ったときに、いつそれが飛んでくるかわからない。どこに向かっていくか分からない。そしてどんな生物兵器を持っているか分からない。それが海を制するかも分からない。
本当にそういうような恐ろしいことがすぐ日本の近くの国に厳然としてあるというなかに子供たちは閉じ込められた31年間を、向こうの言うままに、言うことを聞いて、向こうの国を勉強しろと言われたらめぐみちゃんは一生懸命に物理だの数学だの朝鮮史だの朝鮮語だのを勉強していましたよと、ひとみさんは教えてくれました。私は難しくて分からなかったけれど、すぐに眠ってしまったけれど、めぐみちゃんは一生懸命に勉強していましたよ。よく勉強していましたっていうことも教えてくださっていますが、そのように従順に頑張っているからこそ、生きていけるんだろうと私はそれを思っているんです。きっと何か一生懸命にそういうお仕事につかされているのかもしれないと思うことで祈っておりますけれども、本当にそのようなところがあるのに、食べるものを、痩せ衰えた子供たちが水たまりの中からカリカリの足で歩きながら、はだしで歩きながら、やっと一つのトウモロコシをどぶの中からつまみだして、ああこれが食べられると思って口に入れている姿をテレビでよく見ますし、そしてもっともっと悲しい状況をいろいろ知らされています。
私は、めぐみたちは被害者のまだ残っている人たちは、本当にまだ溺れている状態だといつも私は表現しています。溺れた人は、海に溺れている人、川に溺れた人を見つけたとき、皆さんどんな方でも人間であるならどんな人でも泳げる人だったらすぐに飛びこんで、とにかく早く助けようと思って飛びこまれるに違いないんです。泳げない人はボールを投げてあげるでしょう。ロープを投げてあげるでしょう。これにつかまりなさい、がんばるのよ、って言ってくださるのは本当の人の心だと思うんです。ちょっと今ここの会社に行って、大事な用事があるから、もうちょっと溺れていてくださいね。これを済ましたら来ますからね、と言う人は絶対にいないと思うんです。それほど人の命というものは本能的に大切なものなんです。
赤ちゃんから育てて、13歳、20歳、24歳と希望を持って育ち、育った子供たちが、全く何の罪もないのに、そのような形で連れ去られたままで、長いこと分からないで、やっとわかっても、あれだけたくさんの国会議員の方が扇状に座っていらっしゃるのに、拉致救出議連という中に加わって頑張ってくだる議員さんは200名くらいなんです。本来なら、あそこにいらっしゃる全部の国会議員の方が、私が国民のために働きますから私に投票してくださいと言って立たれた方ではないでしょうか。こんな大変な問題が何でできないんだ。みんなで力を合わせればできるじゃないか、と大きな声で言おう、というふうに全員が立ち上がって、みんなが拉致議連になるのが本当の姿じゃないかと私は思っているのです。それほどにも、あまりにも長くのんびりとして危機感がなくて、緊迫感がない日本になっているということを、私は感じています。
本当に一握りの方々が、自分のわが子のように、もし私の子供がこうだったら、わたしはそんな恐ろしい国とは全然関係もちたくありません。そんなことって本当なんですか、って私はもう諦めますからっておっしゃる親御さんがいらっしゃるでしょうか。今日そちらでお聞きになっている皆様は、私の今日のこの話を一生懸命聞いていてくださいますが、この拉致問題と言うのは誰がこのような目に会ったか分からない問題なんです。今日そちらにいらっしゃるどなたかのお一人がここに立たれて、私の息子を助けてくださいと話していらしたかもしれない問題なんです。わたしがそちらから、そのお母さんの声を聞いて、ああ大変だ、何かできることをしなければと思って聞かせていただいていたことかもしれない。このようなことがこの拉致問題なんです。
今拉致をされた人たちは、日本だけでなく韓国はもっと多くの人が拉致をされていますし、12カ国の拉致被害者がおります。ルーマニアとかタイとか、そちらとも連携を組んで、私たちは、家族会は救う会と一緒に頑張って動いておりますけれども、本当にこのような悲しみの中で私は聖書に支えられ、そして祈りに支えられて今日まで歩んでくることができました。詩篇にもうひとつお話をさせていただきますが、苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました。あなたのみ口の教えは私にとって幾千の金銀に勝るものです。この言葉をいつも胸にしまって、そしてまだまだ沢山の数えきれないほどのみ言葉をいただきながら、早く多くの人たちが帰って来られるように、どうすれば帰ってくるのか、アメリカとどういうふうな関係を持てば協力してもらえるのか、イギリスとどういうふうな関係を持てば協力をしてもらえるのか、そのために日本の政府はどんなに大きな声で怒鳴りつけてでも、こんなに大変なことを間違っていると思わないのかって、外交の場でしっかりと声に出して、他国の国民にも分かるようにはっきりとした表現を持って言っていただかなければならないことだと私は思っているのです。
増元るみ子さんのお父さまは、帰国者が帰られる頃はもうがんに侵されて、病院で酸素マスクをしておられました。家族会が立ち上がったころ、私たちは熊本や鹿児島の街角に立って、それぞれの子供の写真を持って、通りかかる皆さん助けてください。署名を一人でも書いてください、と毎日立って絶叫していましたけれども、11年前のあの頃は拉致問題と言われなかったんです。拉致疑惑と言われていました。新聞もみな報道は、拉致疑惑と書かれていました。疑惑ではありません、と言っても、そんなことって本当にあるのかどうかわかりませんよ、というそういうふうな学者の方もあり、政治家の方もあり、報道機関の方もほとんどそういうことを言っているひとが多かったんです。それでるみ子さんのお父さんは、その時に元気な九州男児でしたから、明るいお父さんでした。大きな声で叫んでいました。「何で通り過ぎるんですか。るみ子を助けてください。お願いします。こんな大変な大事件が日本の中で起きていたというのに、こんなに長い間、日本の政府は一体何をしていたんだ」と涙を振りしぼって絶叫していた姿を私は忘れることができないんです。
けれども、帰国をなさった方が帰られた時、るみ子さんの弟である照明さん、今の事務局長ですけれども、あの方はそれらの方を回って、「るみ子のことを知りませんか。るみ子とどこかで会わなかったですか、話しませんでしたか」と聞いて回られましたけれども、あの頃は緊張と恐怖とで何も話がなかったんです。知りません、知りません、ということでした。るみ子さんの弟さんの照明さんは、がっかりして、お父さんがもう危ないので、飛んで飛行機で九州に帰られまして、お父さんの枕もとに立って「お父さん、るみ子のことは誰も知らないようだけれど、ぜったい大丈夫だよ。生きているよ。がんばるから」って励ましておられたんです。お父さんはもう本当に危機の状態でありましたけれども、痩せ衰えてしまったお父さんは、酸素マスクの中から「おれは日本を信じる。だからお前も日本を信じろ」とこの言葉を残して天に召されていきました。
日本を信じろということは、どういうことなんでしょうか。外務省を信じなさい、政治家を信じなさい、警察を信じなさいということなんでしょうか。日本人の一人ひとりの昔からある、ものすごく大事なものを大切にしていた頃の日本人の魂が残っているぞ。それを信じなさいと言いたかったのではないでしょうか。私たちはもう一度自分たちの生活を顧みながら、こんな恐ろしいことがまだ解決されないで、このままで過ごしていった時にあらゆる外交の中で日本は他国からどんなふうに思われるんでしょうか。こんなにたくさんの、大切な日本の自分の我が国の国民が、こんなにたくさんの人が罪なく連れ去られているのに、他国にばっかりお願いをして、日本の国そのものは一体何をしているんだろう、何てのんきな国なんだろうね、命さえ救えないようなそんな国だったら、何でも外交を上手にやればどんなことだってできるぞ、というふうに侮られてしまうのではないでしょうか。本当に大変な大きな大切な問題を、これは抱えこんでいる問題なんです。
どうか皆様、めぐみやるみ子さんのことだけではないんです。沢山の人たちがいつ日本の国に帰れるかと、あのトラップからひとみさんたちや、蓮池さんたちのように私たちも降りたいんですと。早く来てくださいと、今日もお月さまを見て泣いています。どうか皆様、心を一つにして父親、母親の思いとして、日本の国を思う一人の人間として、政府に向かって声をあげてください。そしてこんなことでいいんですかと言い続けてください。そして私たちみんなの心になってくださって、本当にこのことが解決されるまで強いご支援をいただくことができますように、心からお願いをいたします。
まだまだ話したいことがいっぱいありますが、時間がございませんのでこの辺で失礼いたします。今日はありがとうございました。
司会者 横田早紀江さん、ありがとうございました。また会場の皆様も、最後までご静聴いただきまして大変感謝を申し上げます。横田さんの講演の中に、何度も祈るという言葉がありました。狭山ひかり幼稚園には何か集まりをするときに、歌で始めて祈りで閉じるという伝統がありますので、今日も最後を祈りで閉じさせていただきたいと思います。坂戸キリスト教会の郷家一二三牧師にお祈りをお願いいたします。会場の皆様も、心を合わせていただければ幸いに存じます。
郷家牧師 どうぞ、心を一つにしてお祈りしましょう。
神様、私たちは今日横田早紀江さんから、本当の話を伺いました。知っているつもりでありましたけれども、31年間どのように歩んでこられたか、今晩改めて本当の話を伺いました。私たちの願いは一つです。どうか早くめぐみさんはじめ、あの国に連れていかれた一人一人を、その生きる本当の場所に、また本当に人間として扱われるところにお返しくださいますようにお願いをいたします。ご高齢になられているお父様お母様、どうかこの地上にあって、もう一度会えるようにあなたが助けてください。私たちもできる限りのことをそれぞれしたいと、今思っております。どうか、この働きの一端に、今日から私たちをお加えください。またひかり幼稚園の新しいプロジェクトの上にもあなたが支えを与えてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン
司会者 郷家先生、ありがとうございました。このあと9時まで入口付近にていくつかの用意をしております。拉致問題解決のために、微力ながらでも何かをしたいという思いですので、ご理解とご協力を賜りましたら幸いに存じます。
まず横田早紀江さんの著書、そしてブルーリボンのシール、CDの「コスモスのように」そのほかの本やCDなどの販売をしております。この収益は、おもにこの拉致の問題の解決のために使われますので、ぜひご理解し、お買い上げいただければと思います。
また救う会の署名用紙も用意しております。この場でご署名くださってもかまいませんし、署名用紙をお持ち帰りいただいてひとりでも多くの方のご署名を集めてくださいまして、後日署名済みのものをお持ちくださっても結構でございます。ひかり幼稚園では、11月半ばまでに用紙の回収をして、一括送付をするつもりでおりますし、署名用紙に書いてございます救う会に直接送ることもとできますので、よろしいようになさってください。
また入口脇には、募金箱も用意しております。これは今回の講演会の開催費用の一部と、横田さんの活動のための募金でございます。ひかり幼稚園の一般活動や新園舎建設資金などへの募金では全くありませんので、その趣もぜひご理解ください。
またブルーリボンのバッチはすでに売り切れておりますけれども、こちらとシールのほうは拉致問題の解決を訴える意思表明としてお買い上げいただくものです。売上は救う会に送りはしますけれども、その費用自体がほとんど実費だそうですので、募金も兼ねてというつもりではなくて、それはそれ、募金は募金というふうにしてお考えくださいますようにお願いいたします。
なお今夜の講演は、狭山ケーブルテレビによりまして、11月20日から26日までの1週間、毎晩8時から放映されることになっております。どうぞこのこともご利用くださいますよう、お願いいたします。
お忙しいなか、お集まりいただきまして、また皆様とこうしてお会いできたことを大変光栄に存じます。今日横田早紀江さんから伺ったお話が、どうぞ明日からの皆さんの歩みに新しい光となりますようにと祈っております。
今晩は本当にありがとうございました。夜道ですので、足元に気をつけてお帰りくださいませ。
以上をもちまして、横田早紀江さんの講演会を終了とさせていただきます。ありがとうございました。
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