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ゴリラの窓
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木洩れ陽27号 特集 ひかりが目指した保育論 園長 東 喜代雄 1970年4月に第一回入園式を行なってから二十六年が経ちました。出会いあり別れあり、山あり谷ありの四半世紀でした。 いま過去を振り返り、未来を展望しながら「ひかり」が目指してきた保育の心をまとめてみたいと思います。 ------- 人格の根…「生きる力」を育てる 幼児期の教育は、人格の根っ子の部分を育てているのだと思います。ロバート。フルガムがその著書『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(河田書房新社)にのべるように、園における生活は人の一生を支える基盤というか、核のところを作っています。 それは目に見えにくい部分です。短期高利回りや促成栽培など一時的操作や化学肥料のおよばない世界です。何気ない日々の積みかさねが、知らず知らずのうちに「人生に必要な知恵」を形成し醸成しているのです。 ------- めあてをもって生きる そういう意味で園は、枝でも葉っぱでもない土に理もれた根の部分、つまり一生を支える「生きる力」を育てることになります。根さえ大地にしっかり育っていれば、時がくると幹は太り、枝葉は繁り、実は稔ります。その「生きる力」の一つは「めあてをもって生きる」ということです。具体的にいうと意欲、自主性、集中力です。 それらはどこでどのように涵養されるのでしょうか。少なくとも管理され抑圧された空間からは生まれません。子どもはおもしろくて興味があれば何事であれどんどん手を出していきますが、つまらないことだと振り向きもしません。シェイクスピアが「楽しくなければ学校ではない」といったのは至言です。 幼稚園のありようを示す我が園の法律「幼稚園教育要領」も、それは「あそびを通して」(第一章総則「幼稚園の基本」)実現されるといっています。経験というものはなんでもやれば経験になるのではありません。「おもしろかったなあ」「楽しかったなあ、もっとやりたい」と思いながら取り組むことを「経験する」といい、それが身に付いていくのです。「あそび」は辞書に書いであるような「いけないこと、意味のないこと、悪さ、遊興酒食」(広辞苑)ではありません。幼児にとってはまさに人生そのものであり、「遊びが仕事」といわれる所以です。オランダの民俗学者ホイチンガは、その著書『ホモ・ルーデンス』で「人の価値は遊びによる」と言い、人間の本性をホモ・サピエンス、ホモ・ファーベルに対比させて「遊ぶ存在」ホモ・ルーデンスであるとまでいっています。 「生きる力」は文字や計算や実技のように目に見えるものでないだけに評定しにくいものです。しかしこれが育っているとあとは万全です。将来何が提示されても「待っていました」とばかりに真正面から取り組むことでしよう。 このことは園児に、技術主義、作品主義、結果主義を要求しないことを意味します。「できること」「わかること」が至上の価値ではなく「やってみたい」「わかりたい」というように感じ、考え、選び、決定し、行動しようとする心、つまり意欲、自主性、集中力こそ価値あるものと考えます。もちろん「わかること」「できること」がいけないことではありません。発達ということは「可能性の拡大と自由の獲得」ですから。 フロイドの一番弟子といわれたE・H・エリクソン(1995年9月死去)は、自我の形成と成熟を解釈して人の一生の発達の課題をあげています。その中で乳幼児期の課題として「信頼感」「自律性」「主導性」をあげています。温かい家庭や環境の中で優しく見守られながら精一杯遊び、全身全霊を込めて生活する大切さを述べています。 ------- 自由と責任 「自主性」とか「あそび」とか「優しく見守る」などというと、子どもの自由ばかりが尊重されて、ともすれば「やりたい放題」「勝子気まま」と混同されがちです。「果たしてそれで一人前の人間になるのか」と反論がとんできそうです。 もっとも自主性は自発性と共に自己統制(自律)をも含んでいると私は解釈していますが さて言うまでもなく教育は自立した人格を育てる営みです。国家社会の形成者として真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじる自立した人格を育てることです。従って遊びも自主的精神も人間社会の人格完成を目指す真理追求の方法論としてとらえなければなりません。私は自由も遊びもそれは「責任と表裏一体」と考えています。「一人前の人間」とは「為したこと言ったことに責任を持つ」ということで、言いたい放題、したい放題は許されるはずもありません。 ------- 生きる力…人間関係 「生きる力」もう一つの柱は人間関係です。 どんなに意欲や自主性や集中力が育ってもそれだけでは半人前です。人間は「人の間」と書くように社会的な存在ですから、人との関係において自立していなければなりません。いわば「人間っていいなー」「友達っていいなー」というような体験的実感です。それは「思いやり」につながります。 ギリシャの哲人プラトンは、「人間には三つの基本的な能力が必要である」と言い「物事を処理する能力、自分にうち克つ能力、人と人の関係をよくする能力」をあげています。三番目の能力こそこのことを指しています。 アメリカ連邦政府の1990年の報告によると、全米で服役中の囚人の約90%が「幼児期に虐待をうけていた」と報告しています。 人は優しくされるときに初めて人にも優しくできます。「思いやり」は「人の立場にたってものごとを考え行動する」ことです。「しつけは厳しく」といわれますが、厳しければいいと言うものではありません。厳しい中にも慈愛や寛容があって初めて個性は社会化されます。勿論善悪の判断や人類の調和や進歩に寄与する力は、厳しさの中からしか生まれません。厳しさを値引きするつもりは毛頭ありませんが、私たちが「幼稚園に必要なものは愛情とあと半分は土と太陽とガラクタ」「アイデアル(理想)は愛である」といっている意味もまたわかっていただけると思います。 ------- 教育ということ 教育は「共育、協育、響育…」とも一言われるように、人とのかかわりあいにおいて進められる「育ち合い」です。神の前に罪人である人間の一方が「先生」と呼ばれるわけですから、考えてみると恐ろしいことです。 この言葉は、例えばドイツ語には二つの言葉Unterricht, Erziehungがあって、ここで言う「教育」は後者の「引き出す」「つかみだす」が常用されます。別の言葉で言えばそれは「善さの発見」です。 「教育学」Padagogiksのギリシャ語の語源は「子どもらとともに歩く、寄り添っていく」です。おさなごの気持ちやリズムを大事にしながら共感的に寄り添うことによって、人それぞれがもつ「善さ」が十分に発揮されることを教育の第一の目標にすることです。 ------- 子どもの視点を大切に 幼稚園は子どもの花園です。決して理事者や園長、教員のものではありません。幼児が精一杯生存の火を燃やすことによって人生を学ぶ道場です。従って大人の気持ちや要求だけでなく、その経験や活動は子どもにとって意味があるか、必然性があるかという「子どもの視点」が大切にされなければなりません。そうでなければ教育と称しながらそれは単なる大人の自己満足となるでしょう。 今年の運動会はサン・テグジュペリの『星の王子さま』を取り上げました。「子ども時代を忘れずにいる大人は少ない」を中心に、「本当のものは見えない」「見るのは心の目で」と学びました。私たちは時々「子どもに還る努力」をしなければならないようです。子どもはいわゆる幼稚な存在ではありません。むしろ大人は失ってはならないものを捨ててきているのではないでしょうか。例えばアニミズムと呼ばれる心的世界と物的世界を区別しないこと。あらゆる物にはすべて生命、意識、意図、感情があるという前提にたってものごとを考える因果観など、幼児は幼稚だからそう考えるのではなく、本当は人間みんなが持っていたい尊い心情です。 その他子どもの優しさ、好奇心、行動力、機智、ゆったりした時間の取り方、寛容さなどどれをとっても教えられ学ぶことばかりです。 ------- 「いま」を充実して生きる 幼児の教育は、幼児期のその尊い「いま」を大切にするということです。老年には老年の、熟年には熟年の、青年には青年の生活文化があるように、幼児には幼児のかけがえのない生活文化があるのでそれを大切にするのです。 「上に学校があるから今のうちに」とか「あとで役に立つから、あとで困らないために事前にやっておく」というのではなく、二歳の生活があって三歳があり、三歳の土台の上に四歳が築かれ、四歳を充実して初めて五歳がある…という考え方で、その時々の「いま」を精一杯生きることが重要なのです。そうでない早手回しの教育は「手抜き工事」よろしくいつか破綻するかもしれません。上からの発想はどうしても下が未熟で、もどかしく「今の若い者はなっていない」という愚痴につながります。そういうわけで子どもはそのままで十分に尊ばれなけれぱなりません。 ------- 一人一人の尊厳 「子どもを子どもとして尊ぶ」ことは一人一人の人間の尊厳です。その価値において他と劣ったり、不必要な人、意味のない存在など一人もいないという価値観です。神様は深い意図と計画をもってそれぞれをご自分に似せて造られました。それは「一人一人が神に愛されかけがえのないいのちである」という認識を導きます。 先頃大宮市で障害をもった幼児の葬儀がありました。遺体を棺に納めるとき、親戚の人、たちは口々に「今度生まれてくるときは健常児として生まれてこいよ」と言ったそうです。ところが彼のお母さんは一言「このうえ障害が十倍あってもいい、生きていてほしかった」と一言われだそうです。これが親の叫びでしょう。人は生存そのものが尊いのです。 私はそういう意味で幼稚園はニつの教育を実際に行なっていると思っています。それは「人権の教育」と「平和の教育」です。人権擁護委員でも裁判官でもなく、アンタックやユニセフやNGOで活動したこともありません。しかし幼稚園という刺激に満ちた紛争の最先端にいて、世界の平和につながる実践を行なっていると思っています。 一人一人の善さを認めることは一人一人の違いを認めることです。それぞれの特長や弱さ、考え方ややり方、国や皮膚の色、ことば、身体的差異などを認めあうことです。 これまで園は、ハンデキャップを持っている人が目立つような活動はしない、同時にスターも作らない方針をとってきました。どういう人がいてもそれこそ当たり前、生活は普通に進行する…いわゆるノーマライゼーションを心がけてきました。これこそ私たちの普遍的な願いです。 先述したように教育は、別名「善さの発見」です。弱さの矯正や短所の改善に狂奔するより、それぞれの持ち味、善さが発揮されて、太郎は太郎らしく、花子は花子らしく生きるときが最も美しいとするのです。 自分の善さが認められることは、意欲や自信につながります。このことは相手の善さに目を同けること、お互いの善さを見出しあうこと、そしてその善さを伸ばしあうことです。これはいま教育の現場に求められている最大の課題だと思います。 ------- ひかりの教師像 林竹二(哲学者、元宮城教育大学長)のことばに、「切り捨てられ続けてきた子どもは、教師や学校に不信を持っている。その不信を荒れるという行動で表わしている。荒れさせるものは何であろうかと一生懸命つかもうと努力する教師は変わっていき成長する。教師がみずから学び、変わっていくことによってしか、子どもは変わらない」(著作集第九巻)というくだりがありますが、園の生活、教師の在り方、保育の方法、内容を考える上でとても参考になる示唆です。問題は外部にあるのではなく、その手がかりは自分自身にあるとするのです。 もとより保育は子どもの発達に向き合う営みです。一人一人のかけがえのない生命体と生活を共にし、必死になって生きようとする了どもたちの発達に寄り添うのです。保育には正解があるわけでも、理想の型があるわけでも、マニュアルや御墨付きがあるわけでもありません。人間と人間お互いの関係の中で生まれ造り出されていく生成の営みです。 いつも新鮮で生き生きしく、多様で複雑、そして意外性に富んだ保育に参加する以上、保育者はいかにあるべきか答えは自ずと導き出されます。 特に園が「キリスト教教育」「手づくりの保育」を掲げるとなりますと、必然的に、小人数制で家庭的、そして配慮こまやかな暖かい幼稚園づくりを目指すことになります。周囲の人々を思いやり、愛と奉仕の精神にあふれ、「自分にしてほしいように人にもそのようにしなさい」というキリストの言葉を実践しなければなりません。 教育は「自己満足との戦い」でもあります。保育も生活もマンネリに流れ、学ぼうとせず、研究心や向上心もなくなっては、もはや役には立ちません。 ------- 地域のセンターとして 教師は園における幼児だけに限らず、園児の家族、家族の位置する地域社会全体…つまり園を取り囲むコミュニティー全体を保育の対象と考えることになります。保育は子どもたちのありのままの生活を基盤としており、園児は丸ごと家庭や地域を背負って園にやってくるからです。 もちろん実際にはそこまで手を伸ばすことは不可能に近いのですが、気持ちとしては「揺り寵から墓場まで」、園は生涯教育の一つの拠点、センターでなければならないし、またそうありたいと願っています。 そのような意味で園児、卒園生はもとより、地域の皆さんに「ここにひかり幼稚園があって良かった」といわれるようになりたいものです。これはきわめて重要な今後の課題です。 |