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ゴリラの窓
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動物・保育・人生(1)
---生きものとの共生をめざして--- ひかり幼稚園 東 喜代雄 |
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1968年春、私たちは九州から埼玉県狭山市にやってきました。歳をとった妻の父親の世話をするという名目でしたが、その数年前「狭山 に帰ってきたら幼稚園をやるくらいの土地はくれてやる」と父から言わ れていたので淡い希望を持っていたのです。ところが狭出にきてみると、 父は健康を損ねており、母は入院中で、幼稚園どころではない状態でし た。ある日、子どもの育ちについて話していた時、養蚕家であった父は 「そうだ、生きものは小さいときにちゃんと育てておくと後は放ってお いても大丈夫。幼いときに一生は決まってしまう」と言って、次の話を してくれました。「その年の絹織物の値段は、春の一番蚕の二齢のときに決まる。カイコが繭をつくる五齢の時期〈人の指くらいの大きさ)になって、いくらクワの葉っばをやってももう遅い。個体は決まっている」というのです。春の一番蚕というのは、年間で最初に育っているカイコ。三齢は二度日の脱皮をしたところで大きさは五ミリか六ミリ。人間でいうと二、三歳というところでしようか。その時期にその年の絹製品の品質、収穫は決まる、つまり絹織物の値段は決まってしまうという意味です。この時期に適当な温度、湿度、気流、それに上等の飼料〈クワ)が揃うとベストなのだそうです。この話を聞いたとき私は「そうです。だから幼稚園をやりたいんです」と訴えました。義父は「それもそうだな−」といい、ついに幼稚園の設立を承諾し、資金を出してくれました。 2年間の準備の後、1970年開園に漕ぎつけました。 1975年、幼稚園でとれたマユから糸を紡ごうと、私は村のお年寄を招きました。若い人で「座繰り」のでき上る人がいなかったからです。テラスに陣取った子ども達の前で、お年寄はお湯に浸かったカイコから目にも止まらぬような細い糸を取り出し、何本かを束ねながら滑車に巻き取っていきました。ところが何を考えたのか、一人の園児が「先生、あのさ−?」と質問したのです。おばあさんは照れくさそうでしたが、やがて「なあ−に」と子どもの質問を受けてくれました。私はこのやりとりに感激しました。園舎やホール、免許状や法律など、幼稚園の格好がなくても子どものいるところは、裏庭でも、袋小路でも、縁側でも、電車の中でもどこでも幼稚園になりうる、これこそ幼稚園だと思い、すぐに「家庭幼稚園」と称する実践を始めました。 このように、生きものが「幼児教育の在り方」を教えてくれた「実物レッスン」でした。 園では、クジャクも20年以上飼っています。飼い姑めたのにはちょつとした動機がありました。私がイタリアに旅行したとき、クジャクが群れをなして道路を横断する風景を見ました。自動車の運転手はその間「ブー」ともやらず、クジャクが通り過ぎるのをゆっくり待ちました。私は「これこそ文化だ!」と思いました。動物が我が物顛で人間社会のまっただ中を闊歩する。日本ではどうでしようか。動物たちは人間を恐れておどおどしています。近くのM湖に飼われていたハクチョウは数年で全部いなくなりました。クマゴを生んでも盗まれ、成長しても首の骨を折られ、人間を恐れていつも逃げ回っていました。学校で飼われている小動物でさえ被害にあってい ます。 GNPも国民所得も科学的な技術力も世界に冠たる日本と、イタリアのような国と、文化的にはどちらが豊かなのだろう。それならこの小さ な地域社会だけでも、この文化が築けないだろうか。そう思ったのです。クジャクを飼っていた人を数回訪ねて、私なりのロマンチズムを話し、懇願しました。しまいには気持ちよく譲ってくださいました。さてクジャクは卵を産むと、原則的には自分で抱卵してヒナを孵します。しかし時によっては卵を産むだけで、みずからは抱卵しないことがあります。そんな時は私は生み落とされた卵を拾ってきてインキベーター(孵化器)に入れ、一定の温度と湿度に気 をつけながら転卵を繰り返して孵化させます。さて孵化器で孵ったヒナが、三、四年かかって成鳥になり、卵を産みますと自分は抱卵されていないのにどこで覚えたのかちやんと抱卵してヒナを孵します。ところが二代にわたって抱卵されていないヒナが、成長して卵を産んでも今度は抱卵しません。母性という本能がどこかへ吹っ飛んだのです。インキベーターで育ったクジャクは、ずっと一緒だった人間の手を自分の親と思っています。手を近づけるとじゃれついてきますし、手を遠ざけるとついて行こうとします。どこでも人について歩きますし、運動会の時など一緒に走り出したりします。「刷 り込み現象」というのでしようか。 自分はクジャクだとは考えていないようです。さていま幼稚園にいるクジャクは四代目です。彼女は抱卵をしないどころか、卵を産む場所は、なんと地上二メートルのバーの上です。卵を産んだ瞬間に卵は地面に叩きつけられて割れてしまいます。産み方すら知らないのです。 いま育っている子どもたちが大切にされていなければ、彼らが大人になって子どもを育てるときに、どんな親になるのでしようか。優しくもされず、弁当も作ってもらつたことがなく、手塩に掛けられた実感もなければ、我が子に優しくしてあげることはできないでしよう。「子どもを産むのは私、育てるのはそちら〈国家、自治体、保母さんたち)でどうぞ」という風潮が当り前になると、将来は恐ろしいことになるように思います。 クジャクは奇麗で見とれてしまいます。ことにオスが羽根を広げている姿は神々しいばかりです。ところがクジャクにも弱点はあります。姿の割に声が奇麗でないことと、羽根が奇麗な割りに足(二肢)が奇麗でないこと。私はときどき「クジャクよ、驕るなかれ。汝の声を聴け」とうそぶくことがあります。
幼稚園にはハクチョウもいます。 アヒルの天婦もいて毎年ヒナがかえっていました。ある年、足の悪いアヒルが産まれました。みんなは 「みにくいアヒルの子」といいながら可愛がりました。ところが夏休みが終わって登園してみると、彼は見事な色に変身していました。父のからだは白色、母は茶褐色なのに彼の頭は緑、胸の辺りは紫、首の中心に白い輪がついていて、羽根には空色の線の飾りがあり、何ともいえない美しさです。アヒルの一代雑種か隔世遺伝でこの色が出たのでしよう。 その年の運動会のテーマはもちろん「みにくいアヒルの子」になりました。アンデルセンの童話にヒントを求めたのです。子どもは本質的にはハクチョウであっても、いまはアヒルに見えるかも知れません。でもいつの日か見事に変容して「白鳥」 になることを期待し、恐れつつ「育てる」営みに参加しようというコンセプトにしました。 運動会では、チヤイコフスキーの「白鳥の湖」や、シユーベルトの歌曲集で有名な「白鳥の歌」の伝説などが登場してとても賑わいました。 ところが、運動会は終わってもア ヒルが白鳥に変わるわけではありません。幼稚園にいる変な?アヒルは、ハクチョウになる必要がありました。そこで埼玉県立0公園にいるハクチョウを譲ってほしいと申し出るとあっさりいただくことができました。 園では親たちと池を掘り、中州を作り、白鳥を迎えました。 さてハクチョウは成長すると毎年のようにヒナを孵しました。ある年は八羽、ある年は七羽と園庭の隅で ヒチが育ちました。白鳥が、抱卵する状況は特筆に値します。クマゴを産むとヒナが孵るまでの、四〜五十日間自分の巣から離れることはありません。ほとんど食事もとらず、転卵する間中、絶えず「くくくく」と 我が子に話しかけます。巣を離れるときは、タマゴが見えないように枯れ枝などで隠します。だから実際にいまタマゴを何個産んで抱卵しているのか産まれてみなければ分からないのです。近づいて覗こうものなら、必死で追い返されてしまいます。ヒナが孵ると、その可愛がりようといったらありません。ヒナがエサを食べ終わるまでじつと脇についていますし、敵を寄せつけないように見張っています。野良猫も野犬も歯が立ちません。水の上で、メス鳥はよくひなを背中に乗せて遊びます。保温という意味もあるのでしょうが、外敵から子どもを守るということもあるのでしよう。ところがオスは絶対に背中に子どもを乗せません。役割分担があるのか、父親は、身をもって子どもと家族を守るために絶えず備えているのだと思います。 産まれて一年経つころには、ヒナは成長してからだは親くらいの大きさになります。親はその年の春とともに、新しい赤ちゃんのために営巣を始めます。巣作りが始まる頃になるとあんなに可愛がっていた両親は、 掌を反すように我が子を排斥します。 自分のテリトリーから追い出そうと 必死に襲いかかります。子どもは訳が分からないのか、追われても追われても池に帰ろうとします。これまで数羽のヒナが血だらけになったことがありますし、中には噛み殺されたこともあります。またある年は、親子がともに戦って両方とも死んだことがあります。
シシは我が子を谷底に突き落とすと言いますが、ハクチョウも同じように凄惨です。そのような光景をみるたびに、人間が子どもの自立に向けていかに甘いか、親離れ、子離れがいかにいい加減かを教えられます。 園にはニワトリもたくさんいます。 その他、ウサギ、オウム、キンギョ、カメ、季節によってはザリガニ、サカナ……。ヤギ、サルも飼ったことがあります。ヤギは赤ちゃんを生んだり、乳を搾らせてくれたり、みんなで散歩に出かけたり、楽しい思い出がいっばいあります。 当「家庭幼稚園」の特色としては秋の一定期間、年長児を六人くらいのグループに分け、週に一回、当番にあたる人の家を訪ね、そこで保育を受けるという試みをしています。 当日の教師は、当番の父親や母親、または祖父母、あるときは見学先の人になります。子どもの希望やグ ループの意見を加味しながら、その家でできる計画をたて、活動を展開 します。担任は手分けをして巡回します。その中で工作、手芸、料理、運動、サイクリング、魚釣り、工場や役所、美術館や博物館の見学、飼育動物との直接的なふれ心のい、赤ちゃんの世話など、予想以上の保育内容と実質の高まりを感じています。 この実践は、園の保育にとつては一つの点にすぎませんが、それでも子どもたちの経験の幅が広がったこと、人間関係が広く深くなったこと、親たちにとつてもさまざまの効果を確 認{*1)しています。
今では、文部省が「子どもを地域ぐるみで育てよう」「園は地域のセンター」などと音頭をとるようになりましたが、当園では25年も前から「町の子どもは町中のみんなで育てる」を一つの理念に掲げ、この実践を展開してきました。 (以下次号) *l 日本保育学会第四十回大会 「研究論文集」1987年518馳ページ 同第41回大会・ 「研究論文集」1988年64ページ ほか |
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キュックリッヒ記念財団発行 「乳幼児の教育」 2000SPRING
No.90より
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