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学校法人 石川学園

狭山ひかり幼稚園

ゴリラの窓
 
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幼児にとって「知」の教育
ひかり会例会 東喜代雄

 幼児にとって「知」の教育は、情緒の安定、自主性、社会的適応の能力の発達とともに極めて重要な柱の一つ(図1)です。しかしそこには図のように相互作用性や順序性があり、
「知」だけをとってつけたように強調することもできません。バランスが肝要です。幼児に興味や関心、知っていたら便利とか知らないと困るというような必然性がないのに、「小学校にいってから困らないように」とか「あとで役に立つから」「早く始めると早く到達するから」というように(今や一種の信仰?)短絡してしまうと困ったことが起こります。
 幼児の知力とは、創造性、イマジネーション、工夫する力、感じる力などを包括しています。ですから文字をたくさん知っているとか、漢字が書ける、数の計算ができるからといって国語や算数の能力があるというわけではありません。ほとんど関係はないといっていいくらいです。
 幼児の思考には、経験一→イメージ→→言葉(シンボル体系)という方向性があります。大人は3者を渾然一体として働かせますが、子どもは経験にしたがってイメージし、それが言葉につながっていくのです。
 例えば幼児に「幼稚園ってなあに?」と聞くとすると「プランコがあるよ」「砂場もあるよ」「お遊戯や折り紙もするよ」「え−と速足、運動会・・・」「お友達がいっぱいいる」ひかりの子なら「ゴリラもいるよ」というかもしれません。それはすべて経験に基づいています。しかし大人なら、幼稚園の存在の意義や教育の目的、保育の方法や形態など、いわば学校教育法とか幼稚園教育要領の世界を話すかも知れません。つまり幼児には実体験が絶対に大切なのです。
 森、魚、ウサギ、鶏・・・と字が書けても、それらを知ったことにはなりません。「知る」ことで言えば、そこに出かけ、見て、触れ、抱っこして関わることです。数字の計算ができるより、数の保存や概念、1対1の対応、結合や分離の枚念が分かっているほうがはるかに力です。
 先にぶりずむで「体験を適さない知識はインチキ」と書きましたが、知識だけでは実感が伴わず、生活感のない冷たい、頭だけのもので知恵とはならないからです。
 少なくとも幼児期は、生活を通してからだごとで物事に触れること。
 例えば「森」なら、いろんな木がいっぱいあって、太陽の光が差し込み、草や風の匂い、温度や湿度、色あい、静けさ、鳥の声、神椒さ・・・、「鶏」なら足が2本、トサカとクチパシ、きれいな羽根を持っていて色んな種類がいて、ウサギとどこが違い、体温や泣き声、重さや形、色、つや、クマゴやヒナのこと・・・などなど、それらを感じ、感動する心が学力として生きて働くのです。文字を覚えること、読むこと、書くこと、文章として表現すること・・・などが少なくとも「苦痛」とはならないように注意してください。
 子どもにとって文字、文章、表現・・・などはわくわくするほど楽しいはずなのです。
焦りすぎて元も子もなくしては何にもなりません。学習には、今がちょうど良いと言う「臨界期」というものがあります。臨界期は人によってそれぞれ差があります。その時が釆たら、きっちりとしっかり教えるといいでしょう。
 2週間ほど前の新聞紙上で、世界の高校生のアンケート調査結果が出ていました。なんと日本の高校生の56%が、「将釆親の面倒は見ない」というのです。「分からない」を入れるともっと比率は高くなります。韓国、欧米とは天地ほどの格差です。
 その理由と言うのが「自分から希望する道を歩んだわけではない」「もっとやりたいことがあった(遊びたかった)」「僕の言うことを聞いてくれなかった」(何をいまさら親の面倒が見れるか)という論理になるのが分かります。
 話の中では、3人の息子たちの話、私自身の体験もいっぱい話しました。とてもとてもこの重要なテーマを、1枚の印刷物にまとめることは無理です。
 誰もが成蹟の良い、頭の良い、賢い子に育ってほしいと思っています。業者は、「放っておいたら手遅れ」とばかりに親を不安にすることによって商売を成り立たせています−。親を不安に陥れないと商売ができないからです。決して知の教育はいけないことではなくむしろ大事すぎるだけに大事にしたいことを申し添えておきます。
 卒園式を前に、いまさらの感じですが、こういう生活を目指してきた「ひかりの子」
のために書きました。あしたを信じて・・・ 

 

からだごとの経験こそ

−次ぎなる発達のために−

小学校も4年生か5年生になると、夏のあいだ男の子たちは球磨川(故郷の川)でウナギを捕りました。玉子や牛乳が手に入らない貧しい時代の貴重な蛋白源でした。しかし理由はそれだけではありません。
 青竹を割り、手頃な大きさにしたヒゴで60〜70センチ長のウナギテゴを作り、あまり大きくなく、臭くて赤っぽいミミズ(ウナギの好物と分かった)をあちこち捜し回ってテゴに入れ、川草で仕切りをつけてから川底に沈めます。もちろんウナギの通りそうな川の深さ、流れ具合、その速さ、川底の石の並び具合などを見ながら位置を決め、その上に石を乗せておきます。 翌朝、日の出とともに腰まで水に漬かりながらテゴを上げるのですが、その瞬間の興奮は、いま思い出してもわくわくします。その一瞬のドラマがたまりませんでした。 私はそのとき、空気中では抱え切れないほどの大きい石が、水中ではいとも簡単に移動できる不思議さを、身体ごとで味わっていました。
 中学生になってアルキメデスの原理や、ものの比重を学んだとき、すとんと胸に落ちるように理解できたことを覚えています。 中学1年でポンプの構造を学んだときも我が家はずっとツルベでしたが、ある日憧れの手押しポンプが導入されて、あまりの不思議さに私はその日のうちの分解しました。親父にほ散々叱られましたが、学校の授業は何の苦もなく理解できました。弁の働きを発見していたからです。
 自動車のエンジンの授業の時も、同じ理屈だなとすぐに分かりました。 ことごとに、生活を通っている経験は、授業で分かりやすく、生きて働きます。本来学問は生活を深く、豊かにするためにあるのですから。
 そういうわけで、学問する上で大切なことは、身体ごとの経験の下地があることといえるでしょう。経験はイメージを発展させ、それは驚きと不思議さに満ちあふれています。子どもの知的好奇心をくすぐらずにはおきません。私たちはそれを「遊び」と総称しています。 学校の授業とは関係ありませんが、私たちは親から命じられないかぎり遊ぶ時間はたっぷりありました。
 駄菓子屋の軒先、地蔵さんのお堂、だれそれの家、路地裏・・・あちこちに溜まり場が
あって、そこへ行くと誰かがいました。2人揃うとなんでもできました。
 野球さえ2人、3人で遊ぶやり方を知っていました。今は人数がちやんと揃っていて、ボールやバットなど道具ほもちろん、ユニフォーム、場所から相手チームまで、全部大人が設定してやって、べ一スも4つないとやれないといいます。
 私たちは、ボールは石ころをポロ切れで歯く包んで糸で縫い、バットは木を削って作りました。時代が違うと言われそうです。 一事が万事、今は手取り足とり、つきっきりで声をかけ、世話をして物事を進めます。 なにより「早く始めておけば、早く到達する」とばかり、「あとで困らないように」「あとで役に立つことほ早目に」といって、早く早くと追い立てます。季節外れの促成栽培という感じです。
 学問的には根拠の乏しい考えなのですが、みんながそうすると、ひとりじっとしておれないのです。 教育産業は、観たちを不安にしないと商売にならないので、「3歳では遅すぎる」、「0歳児の能力開発」と言って盛んに不安を慮ります。お金儲けのために、教育ママの不安を煽るのは簡単でしょう。
 簡単であるからこそ、安易な方向に流されることなく、子どもの将来にとって真に有益なものを提供してほしいのです。 人は、好きな人といっぱい遊ばないと、「誰とでも遊べ」と言われても、遊ぶことはできません。「遊ぶことが楽しい」と実感しているからこそ、誰と一緒になっても遊びたいと思うのです。仲間を誘い、工夫しながら、大勢で遊ぼうとするのです。 同じように、好きなことをいっばいしていないと、嫌いなことはできません。 手伝い、労働、勤勉、義務、勉強などは、どれも自分を強いることで苦痛を伴うことですが、その先にどんな楽しいことがあり、どんな結果が待っているか知っているから取り組めるのです。
 「いいことだからしなさい」といっても、幼児期にいっぱい楽しいことをして遊んだ経験の下地がなければ、その楽しさや面白さは分からないでしょう。
 幼児期が、一生の基礎、基本と言われる所以はここにあります。幼児期の経験は生涯にわたって生きて働く力なのです。 H・リードという人は、現代一流のイギリス詩人である
だけでなく、教育思想家としても大へん有名な人物です。
 彼はその『自叙伝』のなかで、「自分のあらゆる感覚をもって、四季の魔術的なリズム
に参加する。・・・こういうことのすべては、根本的な人間の経験であり、それを奪われることは、人間以下の何かになることである。」と言っています。
 「自分のあらゆる感覚を持って四季のリズムに参加する」ということは「自然を相手にした、幼児期の遊び」を指しています。 リードは、幼児期にこのような根本的な経験をしておかないと、人間らしい人間にはなれないと断言しているのです。
 さらに同著は、「人生における唯一つの真の経験は、汚れのない感受性で受け止められた経験なのである。」と言っています。 「汚れのない感受性」とは、幼児期のそのことを差しています。幼児期の経験こそ「唯一の真の経験」というのです。少なくとも知識の詰込みや、早期技能教育のようなお勉強でほありません。
 幼児を人間以下の何かに落としめないために、「幼児にとっての日常」はどうあることが大切なのか、考えながら前進していきましょう。観ること、すること、聴くこと、出かけること、作ること、読むこと、演じること・‥・、子どもにとって魅力ある学習は、払たちの周りにいっぱいいっぱい溢れています。

 

バランスのとれた発達を


 右の図は、子どもの人格を形づくる発達過
程を四つの柱に分け、大切な柱を下の層にお
き、それをとりまく環境との関係を表したも
のです.本書はこの考えに基づいて章を分け、
解説してあります。
 @情緒の発達と安定 人格の基礎をつくる
もづとも重要な柱で、親子間のふれあいを通
して甘えを満たすことが必要です。
 A自主性の発達 いたずらや第一反抗期、
冒険・探険の試み、けんかなどを経験するう
ちに、意欲的・創造的な行動ができるように
なります 。
 B適応能力の発達 自発的に欲望を統制で
きるようになると、集団生活の約束や秩序が
守れるようになります。
 C知的能力の発達 自主的に学習をすすめ
る意欲のある子どもは、自分で考える力をも
ち、知織を増やしていきます。
 この四つの柱とも順調に発達することが大
切です。たとえば、自主性だけ発達しでいて
も、適応力が育っていないと、自己中心的な
子どもになります。また、知識をたくさんつ
めこんでいても、情緒の安定していない子ど
もは、問題行動を起こしやすいのです。
子ども のそれぞれの柱をバランスよく
十分に伸ばして、 社会生活めなかへ
送りだしてあげるの が、親の役割です。

(図1)